マタイによる福音書14:1-21      2015.6.7

1-12 洗礼者ヨハネ、殺される

 ガリラヤの領主ヘロデはイエスの評判を聞き、自分が殺したヨハネが蘇ったのではないか、との不安に駆られた。というのも理由があり、ヘロデは、ヘロデ大王の子で、正式名はヘロデ・アンティパスと称し、彼は離婚し、自分の異母兄弟ヘロデ・フィリポⅠ世の妻ヘロディアと恋に陥り再婚したのであった。このことをヨハネから、「あの女と結婚することは律法で許されていない」(レビ記18:16)と真正面からズバリ咎められたのであった。領主に対し、その行動に対して、臆せず領主に否を唱える人物はいなかった。それが今、領主の目の前に現れたのである。この現実に対し、否を唱えたヨハネという男に対し、何時も恐れ、怯えていたのであった。そして、ヨハネを捕え、獄に繋いでおいたのであった。拘束したのは良かったものの、ヨハネは民衆に人気があって、簡単に手をだし処分することはできず、常にヨハネの処遇について、心に重くのしかかり悩んでいたのであった。

 そんな時、ヨハネの命を奪ってしまう機会が、突然やって来た。ヘロデの誕生日、妻の連れ子の娘が大勢の招待客の前で踊りを披露し、会を盛り上げた。招待者の前で面目が立ち気分を良くしたヘロデは、大見得を切った。「願うものは何でも叶えてやろう」と。母ヘロディアの悪知恵が入り、娘は「ヨハネの首が今すぐ欲しい」と注文したのである。大勢の客の前で言ってしまった手前、ヘロデは、引くに引けず、その要求を引き受け、ヨハネの首をはねてしまった。

 ヨハネの殺害の実行により、その日以降、ヘロデはヨハネの亡霊に囲まれた生活を強いられた。そして「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ」(2節)の言葉を発したのである。ここに来て領主としての威厳ある態度をなくし、亡霊に囲まれ、犯してしまった罪にオドオドする一人の憐れなただの人間になり下がったヘロデの姿が浮かぶ。

13-21 五千人に食べ物を与える

 ヨハネが殺されたこと、イエスがヨハネ到来と見て畏れたことを聞き、イエスは人里離れ

たところへ行かれた。然し群衆はイエスの後を追ってゾロゾロついて来た。それを見たイエスは群衆を憐れみ舟から下り陸に上がった。そしてただちに群衆の中に入り、時を忘れ群衆を憐れみ多くの病人を癒されたのである。弟子たちに諭されれば、日もすでに傾き、夕方であった。イエスは、群衆自らが買い物に行かせようとした弟子たちに「生かせることはない。あなたがたが彼等に食べる物を与えなさい」(15節)と告げた。イエスは、弟子達に「君たちの持っている食べ物を与えなさい」と指示を出した。その結果、弟子たちは「ここにはパン5つ、魚2匹しかありません」と応答したのである。

 ここでイエスは、弟子達に、自分の持っている物をすべて投げ出しなさい、と教えたのである。神は自らを与える、その一方で弟子をはじめ人間は、他人の褌で相撲を取ろうと、自分の都合の良いように考える。イエスの絶賛した貧しいやもめの献金が思い出される。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部いれた」と。(マルコ12:44)

 パン5つと魚2匹で、どうして五千人の腹を満たすことが出来ようか、この素朴な疑問が拭えない。しかし、神の御業、御力からを思い起こそう。神は天地万物を御創りになった方、世界中の生き物、自然は神の意志、手により創られたことをここで思い起こせば、神にできないことはない。その気になれば出来ないことなどない、そう考えることが自然である。ここで大切なことは、イエスは、神の子と信じるか否か、と我々の信仰が問われるのである。

まとめとして

(1)領主ヘロデ本人に向かい罪を指摘したヨハネほど、自身の使命を

 自覚し、ただひたすら脇目もふらず突き進んだ人はいない。ヨハネの

 人生ほど解りやすい生き様はなく、人に言い知れぬ感動を与える。

(2)五千人に食べ物を与える時のイエスは、神に助け、御力(奇

 跡)求めた。イエス自ら天を仰いで祈ったのである。全ての力は神に

 あることを教えられた。私たちが天を仰ぎ、神の御座に私たちの祈り

 を向ける時、神は助けを送って下さるのである。

(3)命のパンは、必ず備えられる。イエスを信じる者は豊かにパンを

 与えられる、そのことが、マタイ6・31-33でも教えている。山

 上の説教でも「思い悩むな」と説かれたが、その説教がここにも流れ

 ている。

(4)神に感謝し食事をする喜びの時をキリスト者同士持つよう心掛けなさいと教えられる。キリスト者同志の喜びは神も喜んでくださる。