ヨハネによる福音書9:1~41      2022.9.11 西澤正文

テーマ: 行って洗ったら、見えるようになったのです。(11)

 イエスは通りすがりに盲人を見かけられました。弟子たちは、盲人をじっと見られてい

たイエスに「盲人がどうして目が見えなくなったのか? 本人か、両親かが罪を犯したためですか?」と、質問しました。原因を尋ねました。弟子たちの心の底には、きっと何か悪いことをした為では…。これは世間でよく聞かれる因果応報、自業自得というもので、当人やあその家族に原因があると言う発想です。

  イエスは「そうではない、神の業がこの人を通して現れるためだ」とはっきり否定されました。神の業・栄光を現わす場=舞台になったと言われました。そして、その場でその業を実行されました。盲人は、イエスの言われた通りに行い、目が見えるようになって帰られた。盲人はイエスに言われた通り、素直に行いました。これは、彼の心には一点の疑いもなく、イエスに従ったということです。

 この盲人の姿はイエスを信ずる人の真実な姿です。この様なイエスの言われるまま従順に従う人の上に神の御業は現れます。彼は眼を開かれ、はじめて見た世界は、どんなに美しく、輝いて

 

見えた事でしょうか。そのことを想像するだけで、私たちもワクワクしてきます。

霊の眼が開かれた人の心もこれに等しいと思います。私たちは、肉体は盲人ではありません。しかし霊眼と言われるように霊の眼は、信仰的に深まれば、それに比例して深まり、イエス・キリストに近づくことが出来ます。この霊眼には限界がないと信じます。霊の目が更に開かれていくことを意識して生活していきたいと思います。

 弟子をはじめ多くの人は盲人が見えるようになったことが信じられず、「どのようにして見えるようになったのか」執拗に質問しました。これは、イエスの御業、御力について全く理解していないことを示しています。盲人が気の毒でなりません。 

▢むすびとして

 目が見えるようになった盲人が、堂々と答えています。「ただ一つ知っているのは、眼の見えなかった私が、今は見えるという事です」(25) この見えるようになった盲人のように、私たちも霊の目が更に開かれ、イエスの栄光を多く現わすことができるよう切に祈りつつ歩もうではありませんか。