ヨハネの手紙Ⅰ1:1-10        2022.5.8

西澤 正文

 ヨハネの手紙は、ヤコブの手紙、ペトロの手紙のような迫害の苦難に直面するような緊迫感はありません。エフェソの教会は、迫害前であって落ち着いていました。この落ち着いた空気は良いように思われますが、別の危険がありました。それは、ギリシャ哲学のような知識が横行し、頭で、理屈で信仰を受け止めようとした傾向がありました。これは、グノーシス派と言われるもので、精神を重んじ肉体を軽んじました。しかし、神は天地を創造された時、人間を土から造られました。神御自身が私たち人間を造られたのであり、グノーシス派のように肉体を穢れたものと論じることはできません。イエス自身、福音書の中で肉体を持ってこの世に誕生されたことがはっきりと書かれてあります。著者のヨハネは、そのことを意識され、この手紙を書いています。

 ヨハネは、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを重んじ、イエスは肉体を持たれてこの世に実

在し、我々と同じ生活をされた人物であったことを、初めに証明されました。このことを認めなければイエス・キリストを信じる信仰は生まれない。ここが肝心要の大前提ということです。

  「わたしたちがイエス既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。神は光でほんの少しの闇もない御方であるということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。」(5-6節)ヨハネは、神は光であり、信じる者が闇の中を歩めば嘘をついていることになる、とはっきりと言います。

   昔、我が家では、雨戸を開けたり、閉めたりしました。大雨の時急いで雨戸を閉めました。また、台風がやって来ると分かれば、早目に、雨戸を閉めました。天気が回復したのが分かるのは、雨戸の隙間から光が射す時でした。日が射すと、雨戸の板と板の隙間、節穴の隙間から、矢のような一筋の光が差

 

 

し込みました。「アッ天気になった」と急いで雨戸を開けたものでした。その時、よく見ると、その隙間から一筋の光の中に、キラキラ光る埃が風に揺れて動いているのがはっきり見えました。「エー、家の中ってこんなにたくさんの埃が舞っているのか」と、驚きました。普段、埃などあまり気に掛けず生活していたので、大変驚きました。

   神は光であり、闇とは全く無縁です。もし、私たちが神を見失い、闇の中を歩むなら、暗い部屋に差し込んだ光によって埃があぶり出されるように、神は私たちに光を放ち、私たちの罪が埃のように暴かれます。

 光は、神の全ての性質をあらわす最も相応しい言葉であり、私たちの目は、光の前に眩惑し、私たちの汚れは光の中て暴露されます。全ての偽りと悪は、光の中では居場所がありません。実に「光」の中に、あらゆる真理が詰まっていると言えます。

   ダマスコでのサウロの様子は、使徒言行録9:3~に記されていますが、サウロは突然、天からの光を受けたため、路上に倒れてしまいました。その後、地面から起き上がり目を開けたものの何も見え

 ませんでした。三日間、目が見えず,食べることも飲むこともできませんでした。神の光に捉えられ、目が見えず動きが取れなくなってしまいました。光により身動きが取れなくなったサウロは、3日間、それまでの生活を振り返る時間として与えられ、心底から悔い改めることが出来たのです。サウロから新生パウロとして生まれ変わったのです。この出来事の全ては、神の御業、御計画と言えます。

▢結びにかえて

 

 光はイエスです。私たちは、イエスを信じる光の子です。光を浴びて明るく、喜びを持って、伸びやかに生活していきましょう。世の中に暗い事、闇に覆われた事が多いですが、イエスの光を全身で受け、その光を世に反射させ、私たちの周りを照らす信仰生活をすることが出来るよう励んでいきましょう。