4章1-32             2012.6.28 

テーマ:神が赦してくださったように、赦し合いなさい(32)  

■異なる賜物を教会全体のために(1-16)  

前章に続きパウロは「主に結ばれ囚人となっているわたし」という自己紹介から話しています。私・パウロはイエスの僕となり命を投げ出した者である、との紹介です。命を捨てたパウロの覚悟、福音を伝える使命感が、ひしひしと伝わってきます。 

あなたがたは、神から招かれた人達であり、それは、神の愛によります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(ヨハネⅠ4:10)  

パウロも神の愛、イエスの愛を身をもって体験されました。自分の意志で無く、神の方から一方的に近づかれ、「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか」と声をかけられました。 

イエスを信じる人は、「パウロ、パウロ」と呼び掛けられたと同じように、イエスから自分の名前を呼ばれ声をかけられた人と見ることができます。ですから、エフェソの教会の人達も「神から招かれた」人たちです。自分の意志によって招かれたのではありません。一方的に声をかけられ招かれたのです。 

本来、教会は一つでなければなりません。なぜなら、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」「霊は一つ、希望は一つ」、従って「神は一つ」だからです。教会の部分、部分である各人が、一つの主に立ち帰るよりほかに一つの教会を実現する道はありません。 

神は、キリスト・イエスの福音を宣べ伝える集会・教会の役割を果たすため、ある人を使徒、ある人を予言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされました。これらの人達により、キリストの体が造られて、そののち、わたしたちは皆、信仰、知識において一つとなり、成熟した人間に成長していきます。愛に根差して真理を語り、キリストに向かって成長を続けます。皆、部分、部分の役割を果たすことを通し、部分、部分 

 

 

 

が組み合わされ、体全体が成長し、教会が作り上げられていきます。 

17-24 古い生き方を捨てる 

教会の姿を実現するには、これに相応しい新しい人になる事が、先ず求められます。神を知らない古い人=異邦人は、キリストの体である教会を構成することはできません。これに反し、新しい人は、神により新しく創造された人であり、このような人だけが神の教会の人となることが出来ます。従って穢れや悪臭の染み付いた古い服を脱ぎ捨て、義と聖の服に着替えることが、教会に求められます。 

「怒りがあれば翌日に持ち越してはいけません。」(26)とあります。何故でしょうか? サタンに付け入るスキを与えるからです。サタンは常に私たちの周りにいて様子を見ています。今の季節ですと、悪臭や腐りかけの食物に集まるコバエ、温かな体温、汗の匂いがする肌に近づく蚊のようなものです。隙あらば養分を盗め、のようにサタンは隙を伺っています。 

 私達は、イエス・キリストに招かれ、罪ゆるされ、救われ、価無しに一方的に恵みを頂いた人に生まれ変わることが出来ました。ですから、もう古い人に戻ってはなりません。 

 イエスは、私たちの罪を請負い、身代わりに死んでくださいました。私達は罪を赦された者同士ですのでイエスの愛に倣い、赦し合い愛し合うことです。それがキリスト教の神髄です。福音です。 

■むすびとして 

私たち一人一人皆罪人です。自分の罪を知って、初めて、他人の罪を赦すことが出来ます。自分の罪を自覚した人は、秋の田んぼの稲穂のように頭を垂れます。自然と低い姿勢になります。私達は、常に、神から今の自分自身の本当の姿を示していただけるよう、もっともっと祈りましょう。