フィリピの信徒への手紙3:1-4:1 2012.8.9

                  西澤 正文
テーマ:今また涙ながらに言います(18) 
「あの犬どもに注意しなさい」と言う「犬ども」とは、真の神を信じない異教徒を指し
ました。軽蔑を示す言葉として用いられました。
犬ども、よこしまな働き手とは、「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われるように、救いは律法によると思っていたユダヤ人のことを示しています。キリストが来てくださったのに、なお人間の知恵とか力に頼もうとしていた人のことを指した。
犬どもたちは、肉体に切り傷を付け、律法の規定に従い礼拝するものです。それとは正反対の、わたしたちこそ真の割礼を受けた者は、心の中に宿る神の霊により、神に向って真実な心を準備し礼拝する者です。これがキリスト者の礼拝です。
 回心前のパウロは、犬どもの一人でした。肉に頼ろうと思えば、誰よりも強く頼れる者でした。生まれて8日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身であり、ヘブライ人の中のヘブライ人でした。「また、律法の義については非のうちどころのない者」(6)と言うほど、自分には非のうちどころがないと思っていました。
それだから、イエスから召命を受け回心してからと言うもの、パウロは、非のうちどころがないほど身を徹して生きてきました。神の私たちの要求「自分を捨てて従いなさい、自分と同じ程友を愛しなさい」等に対し、現実の自分の姿が如何に離れているのか、裁かれ滅ぼされるべき自分か、痛いほど気付

かされたのでした。自分のために死に、自分のため

 

 

に義となってくださったキリストの恵みが、どんなに大きな恵みであるかを示されました。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。」(8)パウロは、イエスを知る知識の絶大な価値が、この世のあらゆる価値と比較にならないことを知りました。だから一切のものを損と思うようになったのです。
 今まで頼りにして来た肉を無価値、否、無価値以下の損と考え、塵芥、糞尿のごときものと考えました。誇りが無価値であり、更に損・マイナスであったと考えたのです。
どうしてでしょうか? キリスト・イエスを知ること、イエスの霊と共に生活することは無限大の価値があることが、パウロ自身の生活を通し体得できたからです。その体験を率直に、真実に語っています。
パウロは、群衆から嫌われ敬遠されていたキリスト信徒、しかもその使徒となりました。
自分に頼らず、自分の全てを神に委ねることの素晴らしさを知り、キリスト者として世活して来た素晴らしさをフィリピの教会の人々にも分かってほしい、今まで何度も言ってきたし、今も涙を流しながら何としてもわかってほしいと切々と言います。パウロの深い愛が伝わってきます。
 私たちは、パウロのフィリピの信徒へ語った言葉がわたしたちに語った言葉として受け止めましょう。