吉野川岸辺から‥‥永遠の命を得るには

 

徳島聖書キリスト集会 西澤正文(静岡県)

 

 8月27日(土)午後2時過ぎ、徳島空港に迎えに来ていただいた吉村兄の車に乗り、一路白うめ幼稚園へ。この幼稚園の近くで生まれ育った北田康広さんの「『心の瞳』トークコンサート」に参加。その後勝浦様を訪問。お母さまに初めてお会いし、共に祈り、賛美する時を与えられた。その足で、鍼灸診療所を営む鈴木益美様、綱野真知子様の店に顔を出す。最後に吉村兄、清水集会の前澤姉、私の3人が吉野川岸辺に立ち、夕焼けに染まる入道雲の美しさに心奪われ、改めて神の織りなす風景の雄大さに見とれた。吉野川岸辺の風景が心の雑念を除いてくださり、明日の聖書の話はすべて神にお任せする決心がついた。翌28日主日礼拝には48名の兄弟姉妹が出席され、熱い眼差しが私に集中していることを感じ緊張したが、吉野川岸辺の神への思いを信じ、神が導いて下さることを信じ、与えられた御言葉を語った。

 

 今回、私は「永遠の命を得るには」と題し、マタイによる福音書19章16節から26節までを話した。青年はイエスに近寄るなり、「先生、永遠の命を得るにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と単刀直入に質問を投げかける。イエスは答える。「命を得たいなら掟を守りなさい」。その後両者のやり取りが2回続く。「どの掟ですか」、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分のように愛しなさい」。「みな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」、「持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい」。

 

 「命を手に入れるにはどんなことをすればよいのか」「それはみな守ってきた」と言う青年は、真面目な人であり、イエスも正面から受けて立つ。マルコによる福音書では、イエスは青年に対し「彼を見つめ慈しんで言われた」と記され、イエスが青年を愛されていることがうかがえる。求めるものにはおしみなく愛を注ぐイエスの姿が浮かぶ。イエスはこの愛おしい青年に対し手を抜かず、「持ち物を売り払いなさい」と言う。自身に欠けた所を指摘された青年は返す言葉を無くし、無言のうちに悲しみながら立ち去った。

 

ここで、イエスは何を教えようとしているのか。青年が「掟を全て守った」と言っても、それは形だけ、形式的に守ったに過ぎず、大切なことは「愛は形でなく、具体的であり実践が伴ってこそ価値あるもの」と言うことである。青年はイエスにより不完全な自分の姿を教えられたのだった。永遠の命は、人間の行い、努力では決して得られるものではない、神様から与えられる賜物である。ローマの信徒への手紙6章にそのことが記されている。「神の賜物は、わたしたちの主キリストイエスによる永遠の命です」と。永遠の命は神の人間への一方的施しである。

 

 青年が姿を消すと、イエスは弟子を相手に話を続ける。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。真面目な青年が意気込んでイエスに質問した結末は、悲しみの顔をして立ち去るという出来事を目の前で拝見した弟子たちは、イエスのこの言葉が胸に突き刺さった。そして正直に心の内を打ち明ける、「それでは誰が救われるのだろうか」と。弟子達の本音である。ここでイエスが言いたいのは、「ラクダが針の穴を通ることより、金持ちが天国に入ることの方がもっと不可能、否、金持ちが天国に入ることは絶対的に不可能」であることを強調したいため、ラクダと針の譬えを用いて語ったのだった。

 

 更にここで注目したいのは、イエスは、金持ちの青年だけを問題にしているのではない、と言うことである。人間に内在する欲望全てを指していることである。自分の力となり、武器になり得る全てのもの‥‥例えば、知識、名声、表彰、社会的地位(肩書)、学歴、ライセンス、職業等など。これらは社会を維持するため長い歴史の中から人間が編み出した知恵、形態に過ぎない。それがいつの間にか、力あるものと考え、ひいては人生の目標と化し、崇拝し心の拠り所とする。これは、人間の弱さであり、金、知識、学歴などを全身にペタペタと貼り付け、ちょうど鎧かぶとのように身につけて生きる様に等しい。

 

静岡市役所に勤務する私は、2年前に退職した局長の姿を偶然静岡駅前地下道で見かけた。現役時代の肩を張り背筋を伸ばした凛々しい姿とは程遠く、丸味をおびた背中は別人の姿であり、その変わり様に驚き、気付かれないよう早足で通り過ぎたのだった。

 

 青年に「全財産を手放せ」の言葉は、3月11日の震災を通し日本人全体に反省を促している。貪欲な現実の自分自身の姿をしっかりと見詰め、私欲、物欲にまみれた今までの生活を方向転換しなさい、との警鐘と受け止めなければならないと思う。 

 

(感想) 

(1)主イエスのまなざし                        伊丹悦子 

    今年の西澤さんのお話のテーマは「永遠の命を得るには」で、マタイ19章の金持ちの青年が「永遠の命を得るにはどうしたらよいでしょうか」とイエスさまに問うところを通してでした。金持ちというのは、自分の欲や、地位、名声、単なる知識などを財産として持っていることでもある。イエスさまは「完全になりたいなら、財産を売り払い、貧しい人に施し、それからわたしに従いなさい」と言われた。青年は、とても実行できないと思ったのか、悲しみながら立ち去ったとある。この青年はその後どうなったでしょうか。 

 マルコ福音書にはイエスは「彼を見つめ、慈しんで言われた」ことが書かれているとのことでした。‥‥イエスさまのまなざし。真っすぐ射して来る光のような‥‥青年はいつかきっとこの霊的な光が見えたにちがいありません。生きている限り、主を喜ぶことができますように。

 

(2)聖書講話を聞いて                         西條晴美
今回は マタイによる福音書19章16~26節を引用しての「永遠の命を得るには」と題しての講話でした。モーセの十戒はみな守っていると言う青年とイエスのやりとりをとおして、人の行いが 形だけの行い命までかけた行いか、を神さまはいつも見極め、御心に適った者に永遠の命を与えてくださるのだと思いました。母との日常生活に照らしてみると、会話の中で感情的になって怒りで返してしまう時が多々あります。何度も「隣人を愛しなさい」の御言葉を思い、反省ばかりしています。しかしそれは‘必死にしているのに’という形だけの行いであるからだと思いました。イエスさまの言うとおり神の掟に従って生きるということは、人に認めてもらうためにするのでなく、神の御心に沿って生きることだと思います。自分の持てるすべての力を用いて周りに奉仕することが、天に富を積むことになると信じて 毎日を過ごしたいと思いました。

 

(3)永遠の命を待ち望む                        藤井文明
マタイによる福音書19章「金持ちの青年」の聖書講話を西澤正文兄弟からお聞きし、信仰の姿勢を新し

くされ、次のような感想が与えられ感謝であります。永遠の命を得るには、イエスは形だけでなく、心から

神を信じるよう教えられました。私もこのところから、いつも心から神を信じていたか反省しています。不

完全な人間は自分の行いや努力では神に受け入れられないことも解りました。また、人間の心の拠り所は、

知識、名誉、名声、地位、学歴、資格、職業も、お金だけでなく人間の欲望全てを指し示し、永遠の命に程

遠く空しいものであることを教えられました。人間には考えられない様な出来事が多発しています。この様

な時こそ、ただ神を神じて上から与えられる永遠の命を待ち望んで行きたいと思います。

 

(4)西澤兄弟の講話を聞いて                      楢崎 諭

 

 金持の青年が掟は皆守って来ましたと言っても神の目からは守りきれていなかった。その欠点をイエスは教えられた青年は、悲しそうに帰って行った。多くの財産を持っていたから。自分で自分が判らない、人間の大きな課題のひとつと兄弟は指摘されました。では、パウロのように総てを捧げ尽くし、聖霊を受け、存在の変容を経験した者はどうか、ガラテヤ2章20節「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」これがクリスチャンの姿であり、そのために一切合切総てを捨てて神と純粋に向き合いなさい、と兄弟は言われ、注解のため引用された幾つかの聖句の中で、それに関連して私の心に残ったのは、ロマ書8章11節です。「キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」