ヘブライ人への手紙12章                 2016.9.4
 ▢キリスト者の鍛錬
 12章のキーワードは1-2節である。
 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」
 現代を生きる私たちキリスト者は、前章の11章に登場する旧約時代の先達(ノア、アブラハム、イサク、モーセ等)の信仰が手本となる 私たちが背負う重荷や罪により、押しつぶされたり、誘惑に染まったり、悪の世界に引き込まれたりすることなく、神から直接一人ひとりに示された一筋の道を、脇目もふらず、目標を見失うことなく、粘り強く、走りぬこう。
 イエスは、神の御子・独り子としてこの世に誕生した。このイエスは、人類の中でただ一人罪なき人であったにも拘わらず、神の絶対的命令により、人々の罪をただ一人背負い十字架に登った。イエスは自分自身のことを考えず、自身の目の前の喜び、快楽を捨てられ、人間を救うため自己犠牲の愛を全うされた。神から告げられた使命=人々の罪を贖うため十字架上で命を捧げることだけを見詰めて、只ひたすらこの世で34年の人生を生きられた。
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」(ヨハネ福音書15:1-2) 良い実を実らせるためには、農夫の余分な実を取り除く“剪定”が必要となる。これは我々に、生活の中に無駄なものはないのか、と検証を呼びかける。常に定期的に 余分な時間、余分な買い物、押し入れに眠ったままの物、余分な心使は、愛おしい気持ちが勝り、中々切り捨てていくことができない。しかし、神の御言葉、イエスの地上での行動を思い起こし、削除していくことが必要である。神・イエスの視点に立つ時、初めて余分な物が見えて来る。余分な物が減って来れば、自分に示された道が、よりはっきりと目の前に示され、反対に、余分なものが多ければ、走るべき道がふさがれ、視界が悪くなる。あれもこれもではなく、あれかこれか、つまり神か冨か、である 天国行きの道は、この世の価値・幸せを捨て、神様一つに絞り込むことである。
 神によって創られた人間が、神を知らないままで完全に心が満たされることはありえない。 「私は満たされている」と思い込んでいても、一番深いところは飢え渇いている。それが我々、神様によって神の似て作られた現実の姿である。
 最近、NHKTV「クローズアップ現代」で“臨床宗教師”が紹介された。その中で、大腸末期がんで死期を迎えた68歳の女性が、心の不安に襲われ、震えていた姿が映し出された。これが人間の死期を目の前にした本当の姿であると感じられた。この女性は、死の向こうの世界……暗い地獄か、光が射しこむ天国か、私は、光の世界に導かれたい!と切望していた。不安に駆られた恐怖心から、心の底から絞り出した声、心に根付いた苦しみを打ち明けられた。人間は、どんな人でも、大金持ち、登りつめた立派な人も、この世を離れる直前、経験したことの無い不安に襲われる。撮影を終えた数日後、臨床宗教師”の訪問を受け、穏やかな顔をして死を迎えた、との報道があった。 
▢結びとして 
 キリスト者にとって、この世の苦しみ、悲しみ、不安、孤独等など、それは全て神様の愛から出た鍛錬である。神はこの苦難に我々がどう向い合って生活していくのか、天国で眺めている。この時のキリスト者の態度が、天国へ行けるかどうかの分岐点であり、また天国へ旅立ったら、地上での生活ぶりを神から報告を受け、裁かれる。私たちキリスト者は、天国行きを目指し、視界を遮るこの世の絡みつく罪や誘惑をかなぐり捨て、一筋の道だけを見詰め進んで行こう 今の苦しみは、天国で振り返れば「神の愛そのもの」であることが証される。苦しみの先を見詰めて進んで行こう。