マタイによる福音書9章1-50 2021.10.24

西澤 正文

テーマ: 信じます。信仰のないわたしをお助けください。(24 )

 イエスが12弟子の内の3人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ(皆漁師)を連れ高い山に登られた。そこでイエスが真白に輝く姿に変わり、驚いた気持ちを抱えたまま他の弟子たちと合流された。

 イエスと3人の弟子たちがいない間、残された弟子たちは、霊に取りつかれた子の父親が、弟子に「この霊を追い出してください」とお願いしました。しかしできませんでした。

 21節から24節に、イエスと父親のやり取りの様子が描かれています。

 イエス:何時からこのようになったか 

 父親:幼い時からです 霊は何度も火の中、水

    の中に投げ込み息子を殺そうとしました

    おできになるなら、わたしどもを憐れん

    でお助けください

 イエス:「できれば」と言うのか 信じる者は

    何でもできる 

ここで、イエスは子の病気を治すということではなく、父親の信仰に目を向けられました。父親の神を信じる信仰心がしっかり固まっていないことに目を向けられたのです。

イエスの問いに対して父親は、即座に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と、はっきりと答えました。

 父親は、子供の病気のことを横に置き、「この私を助けてください」と切願したのです。

 

 

 

この時、父親は、自分自身に問題がある事、今までの自分の不信仰に気が付かれたのでした。イエスに誠実に生きる、ということに気づかされたのです。杭改めに導かれたのです。

 イエスは一人で正面に立たなければ相手にされない御方であるいことが分かります。「わたしども」と複数の立場に立つ人にあまり関心を示めされません。「わたし」という単数で、一人になって、真正面からイエスと向き合う一対一の関係に立つことを大切にされます。なぜなら、信仰はあくまでも一人になって神に向き合い、一人でイエスのみ後に従うことを求められるからです。

 イエスの前に一人で立って、はじめてイエスと向き合うことができます。そしてその関係の中からイエスから恵みを頂くことができ、救いの手、御業を施され、慰めや勇気の御言葉を頂けます。そのことを通して、人は、自分を捨ててイエスの御跡に従っていこうとする覚悟が生まれ、責任を自覚できます。本気になれます。

 人は皆、一人でこの世に産まれ、また一人で天国へ旅立ちます。何をするにも一人が基本

です。このことを自覚して純粋に自分から解放されて人を愛することができる、そのように信じます。

▢まとめとして 

 信仰の基本、人生の基本は、孤独な人になることではないでしょうか。その時、イエスがいつも近くにいてくださることが実感できます。