マタイによる福音書8:18-34       2015.2.22

8章前半で、病の人々を次々に癒されたイエスは、いよいよ神の示された道に向かい、その一歩を踏み出そうする。

18-22弟子の覚悟

イエスの癒しの御業を目の当たりにした群衆は、御力に感動し、この人に就いて行けば、きっと良いことがあると思い従った。そんな時、イエスは弟子たちに後ろについてくる群衆を断ち切るかのように「向こう岸へ行こう」と促した。いよいよイエス自身の使命を果たすべく舞台への誘いであった。そんな中、イエスの後についてくる人々の中に一人の律法学者がいて、イエスを「先生」と呼び、またいとも簡単に「どこへでも従って参ります」と言った。イエスは、一時の気持ちの高揚から出た言葉であることを察知し、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 と言い放ち、そんなに軽々しく心にもないことを言ってはいけないと、相手にされなかった。

イエスが招いた弟子は、「父を葬りに行かせてください」と言う。従う前に家やこの世の 用事を済ませるため少し時間をください、と願った。シモン、アンデレ、また、ゼベダイの子ヨハネ、ヤコブの4人の漁師と比べるとその差は歴然とする。(マタイ4:18-22)

 日常生活の諸々の用事を理由にしてイエスに従うことを後回しにすることは、イエスは認

めない。勉強や仕事が忙しいからとか、体調が良くないからとかの言い訳はその人の姿勢

の現れである。どんなにこの世の用事に一生懸命であろうと、命に至ることはなく、イエ

スからすれば「死んでいる者たち」である。

23-27嵐を静める

「私に従いなさい」(22)のイエスの誘いを受けた弟子たちは「従った」(23)のであ

る。イエスに従うとは、平穏無事な生活でないことを暗示した。ガリラヤ湖に浮かぶ船に乗り込んだ弟子たちを待ち受けたのは、荒れ狂う暴風雨であった。弟子たちの中にはガリラヤ湖の様子を十分知っている漁師もいたのに、予期もせぬ危険に遭遇したのである。「主よ、助けてください」(25)と、弟子たちは必死に呼びかけた。イエスは自然をも支配されるお方であることは知らなかったのである。イエスは、愛情をこめて「信仰の薄い者たちよ」(26)と、弟子たちの信仰を認めつつ、足りなさを指摘し励まされた。そして風と湖を叱ると瞬く間に治まった。イエスの御力に弟子たちは、「いったい、この方はどういう御方なのだろう 風や湖でさえ従うではないか」(27)と言って、驚くしかなかった。

28-34悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす

これまで人間を取り囲む環境の恐怖を支配されたイエスは、ここでは人間の心に住み着く悪霊を追い出す。ガリラヤ湖南東に位置する異邦の地ガラタは独立した政府を持つデカポリスの町の一つである。そこに悪霊に取りつかれ、地元住民に恐れられていた二人がイエスの前に現れた。彼らは、イエスを「神の子」と呼び、イエスの力やその働きを知り、イエスの手により殺されると思っていた。イエスは二人を救うため豚の中に悪霊を送り、あくまでも人の命を救うことを優先に考えた。町の人々はイエスの神がかり的な力を恐れ、イエスに「この町から出て行ってほしい」と願った。土地の人の関心事は、悪霊にとりつかれた人が解放されて喜ぶことより、豚の群れを失うことにあった。人間の命よりも財産や動物を重んじた。イエスは、常に人を憐み、救うことである。イエスは異邦の町、ガダラから出て行ってほしいと宣告された。「人の子には枕する所もない」(20)を実証することになった。

まとめとして

・イエスに従うことは、イエスと運命を共にすることである。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神、主を愛せよ」の新しい戒めの重さが、ひしひしと伝わってくる。あなたの命、人生を神に捧げなさい、との御言葉である。そうできますようにと静かに祈りつつ歩んでいきたい。イエスはこの世の戦いを終え、死の直前の十字架上で、母・マリアに向かい「あなたの子です」と言って別れの言葉をかけた。 そして弟子に向かい「あなたの母です」といって弟子に母を託した。(ヨハネ福音書19:26-27) イエスに従うことは、肉親、共との関係でなく、神との関係を最優先することである。

・イエスの力、御業をどう受け止め、受け入れるか、の大切さが示される。イエスに近づく者、遠のく者、二者の違いが示される。群集や律法学者のように、驚き、感動で留まり、興奮が冷めれば過ぎ去る者。その一方で、イエスを畏れ、委ね、従い、イエスと共にさらなる信仰の道へと進む者。このどちらの道を選択するのか、一人ひとりに回答が求められているのである。