ルカ16:1-31                  2018.11.25
テーマ:目の前のことに忠実な人は天国で慰められる(10、22)
1-13 抜け目ない管理人のたとえ
 ここでのイエスのたとえの目的は、不正な管理人の「抜け目なさ」が、「光の子ら=イエスの弟子やキリストを信じる者」に奮起を促すことであろう。
 イエスは、弟子たちに対し、神に仕えることが根本であり、そのために地上の富を有効に使用し、これを多くの人に惜しみなく与えて福音のために用い、天国に入ることのできる友を多く作ることが必要であることを示す。
 金持のもとで働く管理人が、財産を無駄遣いしていると金持の主人に告げ口したため、「会計報告を出しなさい」と言われた管理人は、自分の罪が主人に知られたので、直ちに自分の解雇後の生活のことを考え、生活が困らないように策を講じた。
 イエスは、不正を誉めたのではなく、その巧みな方法を誉めた。イエスがこのようなたとえを話されたのは、ただ弟子たち(1節)をこの世の富に対して正しく、また、賢明な対応をして神の国の建設の準備をするように、との意味があった。
 イエスの教えは、弟子たち対し、「不正の富」、つまりこの世の富があるならば、金や知恵、健康や時間などは、あなた方は神から任せられたものであるから、「光の子」は、これを天国に迎えられる準備のため、つまり神のため、福音のためにそれを用いて、多くの人々に奉仕し、信仰の友を作りなさい、とのことであった。多くの友をつくるその巧妙さ(=抜け目なさ)においては、この世の子であった管理人に劣ってはならない。
 この世の富は、天国における真の宝に比べれば、小事である。しかしこれを忠実に神の御心に叶うように使わない者は、魂の救いという大なる問題に忠実ではあり得ない。この世の富を貧しき者に施さないのは、不義、罪である。
19-31 神の国の準備をしなかった金持ち
 この金持ちは特別悪人でもなく、律法違反の罪を犯しているのでもないが、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)の教えを実行せず、自分自身だけの贅沢な生活を送っていたことが、大きな罪であった。
 一方、腫れ物が出来、ただれている貧しい人・ラザロは、空腹のあまり金持ちの残飯でも欲しいと思ったけれど与えられず、道行く人の憐みによって生きていた。金持ちもラザロも共に死んだ。この世の生活とは正反対に、ラザロは「御使いたちに携えられ」天国に行き、先祖アブラハムの所で永遠の幸福を受け、金持ちは死者の国(陰府の国)で苦しみの中に投げ込まれた。
 金持ちが、特別悪いことをしたわけでもなく、またラザロが特別に良い事を行ったのでもなく、二人の死後の運命が分かれた。金持ちが貧しいラザロを全く顧なかったことが、死後の審判に反映された。一方、貧しいラザロは、自分の運命に従順に従い、呟かず疑わず、一生を送る人であった。神はそのラザロを特に愛されたのである。 
▢まとめとして
 この世の富は、天国における真の宝に比べれば、小事であるが、この世の富を、神の御心に叶うよう忠実に大切に使わない者は、魂の救いという大きな事に忠実ではあり得ない。
神、イエス・キリストは、一人一人の目の前のことに忠実に生きる人を、天国で慰められる。そのことを私たちは心に刻み、嘆かず、羨まず、唯ひたすら神、イエスキリストを仰ぎ見て、進んでいきましょう。