ヘブライ9章15-28                   2016.6.26
▢キリストの血はモーセ律法の完成
 キリストは新しい契約の仲介者であり、最初の古い契約の下で犯した人々の罪を贖うために死なれた。新しい契約は、キリストの十字架上の死によって初めて有効になる。律法による掟が、モーセから民全体に語られた後、モーセは小牛と雄山羊との血を律法の書全体と民全体に注ぎ言った。「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」と。(出エ24:3-8)幕屋、礼拝用器具全体にも同じように血を注いだ。このように律法に従えば、全てのものが血で清められ、血を流すことなしに罪の救いはない。
 従って、「天にあるものの写し」(=地上の幕屋)が、契約の書、民、幕屋と礼拝用のあらゆる器具に若い雄牛・雄山羊の血を振り掛け、清めなければないなら、天上のことは地上のものにまさる犠牲で清められねばならない。と言うのは、キリストは手で作った地上の聖所ではなく天そのものに入って、今私たちのために神の御前に現れてくださったのだから。大祭司は自分のものでない血をもって毎年至聖所に入るように、キリストは何度も自分を捧げるために入られたのではない。そうでなければ、世の始めから罪人はあったのだから、キリストは何度も苦しみを受けなければならなかった。しかし今や、世の終わりに、キリストは人々の罪を取り除くため、自分の犠牲によって、ただ一度自分を現された。そして、人は、ただ一度死ぬこと、その後、神の前に出て裁きを受けること、これらのことが決まっていると同じように、キリストも、ただ一度‶多くの人の罪を負う‟ために捧げられた。それから2度目に、最後の日に、キリストを信じる人を救うために、今度は罪と関係なく、キリスト御自身を現されるのである。
 従って、私たちは、慎みをもって主の到来を待ち望むのである。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」(テモテⅡ4:5-8)
 わたしたちが、この世で希望を持ち続ける秘訣は、天国に行くという目標をもつことである。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:18-20)
▢まとめとして 
 私達がこの世で流す涙は、十字架上のイエス、天国の神様が全て吸い取ってくださる。そして革袋に貯めていてくださる。困難、悲しみ、苦しみに遭って一人涙を流せば、必ず神様は見ていてくださり革袋の中に流した涙を入れてくださる。天国に帰った時、涙の量が多ければ多いほど神様から褒められる。そのことをこの世の生活の励みとし生活を送りたい。我々キリスト者の目線、心の拠り所、価値は、この世ではなく天国であり、神、キリストがこの世に再び臨まれ、裁かれ救われる再臨を待ち臨むのである。