コロサイの信徒への手紙2:1-23   2012.8.30

                   西澤正文
テーマ:キリストの内に知恵、知識の宝のすべてが隠されている(3)
 パウロは、コロサイの人々が、もっともらしい巧妙な議論によって過ちに導かれることを心配し、「キリストの内に知恵、知識、宝が全て隠されています。」と伝えています。正しい知識は、キリストの中に隠されていて、しかもその知識は奥義として、神自らが人に教え示すからです。
パウロはコロサイの信徒に、次のように語り掛けます。
あなたがたはキリストと共に死に、この世の教えから離れたなら、どうして、まだ世に属しているかのような「手を付けるな、味わうな、ふれるな」というような定めに拘束されているのですか。これらはすべて、使えばなくなってしまう一時的なもの、人間の規則や教えです。この様なものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、また、肉体の苦行など、賢いものの様に見えますが、肉の欲望を満たすだけの何の価値もないものです。
人間の知恵により生み出されたこと細かな生活上の規制に心や目が奪われないよう励ましています。
穢れている一般の人は罪で穢れているため神に近づけず、代わって天使が神と人との間をとりもつ天使礼拝(18節)がはびこる中で、パウロはそのような礼拝に心を奪われないよう警告しました。
 ヨハネを除く三つの福音書の中に、イエスが息を引き取られたと同時に聖所・至聖所の境のカーテンが引き裂かれ落下された事件が知りされています。

(マタイ27:50-51)「イエスは、再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」

 

 

 

 

この出来事は画期的、象徴的な出来事です。人と神の間を取り持つ天使は不要であることを示していると思います。至聖所は年に1度、大祭司一人が出入りを許され、贖罪の祭事を執り行う神聖な場所です。その境が裂けて落ちたのは、イエスの亡くなられた時と同時でした。これは何を意味するのでしょうか。イエスは恵みの大祭司としてこの世においでになりました。イエス御自身がはんさいとなり、雄山羊と若い牡牛の血でなく御自身の血を捧げ、ただ一度聖所に入り永遠の贖いを成し遂げられました。ですから、もう大祭司が至聖所に出入りし、はんさいを捧げる人間の手による儀式はいらなくなったことを示しています。イエスの到来は、人を介さず、イエスと信者が直に結ばれる新しい世の到来を告げられたのです。
■むすびとして
回心前、サウロは、「律法の義については非のうちどころのない者」でした。富める青
年は「掟を皆守ってきましたが、永遠の命が得られません、どんなことをすればいいのですか? イエスに質問しました」 二人共、この世の掟を一生懸命守り続けましたが、平安、喜びの確信が持てず、苦しみました。罪の奴隷の生活から抜けられないからです。
罪の奴隷状態の生活から解放されるには、罪を贖ってくださるキリスト・イエスを信じ る道しかありません。キリスト教を信じる道、例えか細くても、時に視界が悪くなっても励まし合いながら、一途に進んでいきましょう!