マタイによる福音書22章                2023.9.10

小田弘平

  天の国はどのようなものか。イエスはたとえを用いて「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と言われる。ところが招ねかれた人の中に「婚礼の礼服を着ていない者が一人いた」。王は「友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか」と問いかけた。王は婚礼の礼服を着ていない者を「友よ」と呼んでいる。イエスは今も「友よ」と呼びかけてイエスは神の国に人々を招こうとされる。しかし、現世の大多数の人はこの呼びかけに応じない。このように「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。

  「選ばれる人」とは天国に入る「晴着を着せてもらう」恵みを与えられた人を意味する。パウロは「イエス・キリストを身にまとう」ことであると言う。聖書は語る。悪しき者でも義の衣を着れば義、つまり正しい人とされる。本当にそうだ。イエスも語調を強めて「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。これがイエス・キリストの福音の本質だ。

 

  当時人々ローマの圧制社会の中でも生きていかねばならならなかった。現在もそうである。命、真理、正義は無視され、権力が我が物顔で君臨し貧困で苦しむ人々が激増している。しかしこの世界は本来神のものである。それゆえイエスは「神のものは神に返しなさい」と言わる。神の支配される平和な社会を取り戻したい。ここにキリストを王として生きる信仰者の戦いがある。キリストが支配する社会の到来を祈る戦いであり、貧困との戦い、真理の戦い、絶対非武装の戦いである。

 この戦いは世の中では無力のように見えるがそうではない。この世の最も苦し

 いところで確実に進んでいる。イエスがこの世に遣わせられてまだ2千年しか経っていない。

  また信仰者は復活後の世界を望みつつ進む。イエスの十字架の死により意気沮喪した弟子たちは甦った主イエスに出会い、まったく別人のようにされて主イエスの復活の証人として立ち上がった。その延長上にわたしたち信仰者がいる。それゆえ私たちは主イエスをこの身に着て先立ち進まれるイエスに従って「神を愛し人を愛し」て生きればよい。これこそ「神のものは神に返しなさい」というイエスの御旗をに従う信徒の生き方だ。