マタイ26:47-75                         2016.1.17
-捕われの身でありながらもイエスが主役-
群集は、社会に影響力があり、社会的地位が高く社会のリーダーである有力者に上手く
コントロールされ(利用され)、唆され、支配者たちの手下となって従順に動いた。イエス
を十字架につけるまで祭司長や長老に徹底して従順に従った。イエスを十字架に昇らせたのはこの群集であった。(27:19-26)
一方、イエスの12弟子の独りであるユダといえば、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」(48)と、前もって合図を決めていた。「それ」とは、イエスを指しているが、常にイエスの近くで仕えてきた弟子の言葉だろうか、と疑う。周到に準備し、ユダが接吻する相手がイエスと決めて、捕らえる作戦に出た。 
ユダ以外の他の弟子はどうだろうか? 弟子の一人・ペトロが、敵がイエスの手を掛けた瞬間、剣で耳を切り落とし、イエスを守ろうと行動した。弟子の面目を保った行動が、
唯一これだけであった。最後は、弟子11人全員、イエスを置き去りにし背を向けて逃げ
去った。(51) 
イエスは、窮地に追い込まれても常に冷静であり、その場を支配する主役であった。
裏切るユダに向かい、最後の最後まで「友よ」(50)と呼びかけ、今までの関係のままに
接した。終わりまで悔い改めを願っていたイエスの弟子に対する信頼、深い愛が現れたひと言である。また、ペトロが、何としてもイエスを守ろうと、武器で反撃に転じた場面では、イエスの命を守る行為でありながら、弟子のその行為を咎め(とがめ)、諭した。(52)「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」これは、非戦平和、恒久平和の考えであり、真理である。人類の歴史を学べば、このイエスの言葉が真理であることが証明される。戦争は、勝者も敗者もない。皆敗者である。多くの戦死者、国土の荒廃(建物、文化的遺産の破壊、農作物の喪失等)、膨大な国家財政の浪費等など負の遺産を生むだけである。イエスは、父から与えられた自身の運命に従っていることを表明する。父に願えば、いとも簡単に目の前の窮地から抜け出せるが、今は父の命令に従うことを表明し、父=神への絶対的信頼により動じない。最も窮地に陥っているはずのイエスが最も冷静に対応し、群衆、弟子たちに諭した。
捕われの身となったイエスは、最高法院に連れて行かれた。大祭司の前に出ると、そこ
に民衆を扇動し遣わした祭司長、長老、律法学者たちの姿があった。イエスのことが心配で、人ごみに紛れ、弟子の中で唯一ペトロの姿もあった。イエスは証人尋問を無視し、ただ神がこの世に臨まれる再臨を説明し、イエスが神の右に座り地上に臨まれることを予言した。死刑判決のシナリオが続いた。イエスの予言にいきり立つ大祭司、これも群衆を扇動するパフォーマンスである。イエスの言葉は神に対する冒涜と決めつけ、賛同をあおり「死刑にしろ!」を引き出す。イエスは、無抵抗、無言を貫き通す。一部始終イエスの暴行を見つめていた唯一の弟子・ペトロの出番はなかった。怯えおののきその場にとどまるのが精いっぱいであった。
ペトロは、12弟子の中で代表的な立場にいた。イエスが弟子たちを前に「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問う時があった。するとペトロがいの一番に答えた。「あなたは、メシアです。」答えたことがあった。(マルコ8:29 P77)このような場面ひとつからも、ペトロは弟子の中でも代表格であることがわかる。性格的に短所もあろうが正直な人柄、熱心さは、大いに見習わなければならないところである。                                                         ▢まとめとして
1.人は、権力を持つ人、群衆と言う多数者に群れたがる弱い生き者である。社会は利害関係が渦巻き、無意識の内に保身的な視点で物事を考える。また、群衆と言う多数者との距離感を意識し孤立しないよう身の安全を図る。これは真の独立心が備わっていないからである。神に結び付いて真の独立性が養われる。利害関係を離れること、無私になることが大切であるが、そのようになるのは、神に結び付いて可能となる。 
2.ペトロは、常にイエスの近くにいた。それは、熱心に求める姿勢の現れである。「求めよ、さらば与えられん」の姿勢を強く持った。求めにより、躓き、苦しみ、悩むことが多かったが、一つ一つの出来事を通し、導かれた。躓き、困難な時こそ神が近くに居てくださる事を感じる事ができたのである。聖書の話をお聞きするだけでなく、イエスのお話を日常生活の中で実践する事によりイエスに導かれることを教えられる。