ヤコブ2:1-26                                                    2016.2.28
▢人を分け隔てしてはならない
    ヤコブは、我々に「人を分け隔てしてはならない」と言う。このことについて、私自身の人と接する時の態度を振り返れば、人によって取る態度が微妙に異なっていることを知る。外見(容姿、服装)、家柄、学歴(出身大学)、肩書(社会的地位)、年収等など、これらは人間にとって、本質的なものでない、大切なことではない、と考えているつもりでも、実生活では、微妙に相手により異なった態度である自分を知る。
 「人生、ひと昔十年」とよく言われた。私が市庁舎で働いた約20年前当時、市議会議員は、党・会派事務所に悩みを抱えた市民を迎え入れ、その場に関係課職員を呼び出したものである。「この人の相談をよく聞いてくれ」と。確かに問題を抱えたその市民のために力になりたい、純粋な気持の議員もいた。その一方で、選挙の票を期待する議員もいた。一方、相談者は、力のある議員が動いてくれれば、多少無理があってもなんとかしてくれると期待した。お互いの「期待」は違っても自分の益を期待した。
    「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさった」(5) イエスは、一途な女性、社会から疎外された人等を愛された。やもめの献金(マルコ12:41-44)、姦淫の女(ヨハネ8:1-11)社会から見放された徴税人ザアカイ(ルカ19:Ⅰ-28)、ぶどう園の労働者(20:1-)等など。イエスは、見返りを「期待」することは何もなく、ただ無心に困っている人々に愛の手を差し伸べ続けた。
 イエスは、これまで多くの人々と接する中で「あなたの信仰によって」「あなたの信仰を見て」と言ってはその人の信仰を褒め、御業を為し、慰めの言葉をかけ、救いの手を差し伸べた。百人隊長、僕の中風の癒しを乞い願う百人隊長に(8:10)、人々中風の人を寝かせたまま連れて来る人々に(9:2)、12年間出血が止まらず、後ろからイエスの房に触れる女に(9:22)、2人の盲人に(9:29)、シドン地方に来たイエスに娘の癒しを直訴したカナンの女に(15:28)等など、その人の熱心に迫る信仰を褒めた。
 イエスは、イエスに救いを求めて迫る一途な態度、なりふり構わない迫力を霊により感じ、その人の心底から望む態度を大切にする。ヘブライ人への手紙にも「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)と言われ、切に望む強い心を望んでいる。
▢イエスに繋がって実(=行い)が生まれる
 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。」(ヨハネ15:1-4)信仰は、神、キリストに繋がっていることであることを分かり易く告げる。そして、神、キリストとの交わりにより行為が生まれるのであり、自分の意志でない。
 イエスは「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と命令する。よって、人は「神様、私は何をしたらよいですか、隣人のために私は何を為すべきでしょうか」と祈り求めなければいけない。そして実行することがクリスチャンである。只単に「行ないなさい」と言われているからと自分の意志により行いを為したところで、信仰から出ていないその行ないは、どこまでも自己中心、自己満足の世界から出られるものでない。
 イエスを仰ぐこと、イエスに迫ることが信仰である。イエスは、その人の求めが本物か否か、直ぐに察知される。行いが、自分の思いから出たものは、必ず挫折するのである。 
▢まとめとして
 行動の人とは、神の御言葉、御声をお聞きし、神様から導き出された人であり、自分の決断でない。モーセは、「こんな私がどうして民のリーダーとしてエジプトから多くの民をカナンの地へ導けようか」と幾度となく嘆き、神の命令を拒んだ。しかし、最終的には、神を絶対的に信頼する信仰的決断により命令に身を投じた。モーセがこの決断を下すことが出来たのは、神に繋がっているという確信から生まれた。我々もモーセの後に続きたいものである。