ルカによる福音書10:21-42      2024.9.29

西澤 正文

テーマ:行って、あなたも同じようにしなさい(37)

 有名な「善いサマリア人」について、イエスと律法の専門家の間でやり取りがありました。旧約の教えに詳しい律法の専門家が立ち上がり、今こそイエスを試す絶好のチャンスと思い、イエスに二つの質問をしました。

 先ず、「何をしたら永遠の生命を頂くことができますか?」 イエスは答えました。律法の中の戒め二つ「心から神を愛しなさい」「自分の如く隣人を愛しなさい」この戒めは旧約に書かれ、律法の専門家なら知っていることを見越し、「知っているだけでなく行いなさい。」と加えました。 

 次に、「隣人とは誰ですか?」 イエスは先ず、追いはぎに会い半殺しに襲われた旅人に対する祭司、レビ人、サマリア人の三人の対応を説明された。祭司、レビ人はその人を見るなり反対側の道にわたり通り過ぎてしまった。その後、サマリア人が来て、傷を手当てしロバに乗せ宿屋で介抱し預け、「費用全部払います」と伝えて去ったことを説明された。

 この説明後、イエスから「この三人の中で隣人とは?」と律法の専門家に逆質問され、「その人を助けたサマリア人です」と答えました。敢えてイエスは、サ

 

マリア人になれない法律の専門家に「追いはぎの隣人になった人はサマリア人です。」と答えさせたのです。イエスを試そうとした律法専門家が、逆にイエスに試されました。そしてこの応答の最後に「あなたも同じようにしなさい」と言われ、暗に“教えるだけでなく実行せよ”と言われたのです。イエスの完勝でした。 

▢まとめとして

 隣人愛は頭では分かっている。しかし、その通りに行えないことが問題です。気に入る人は愛せるが、気に入らない人は中々愛せないのが実情です。

 愛は自分の立場に立ったままなら生まれません。自分の立場を出なければならなりません。自分の殻を破る、自分が死ぬ、滅びる、無くなることです。

律法学者や祭司は、慣れ親しんでいる言わば身内の人たちのみ愛しました。この人達の生活は、穢れないよう異邦人と距離を保つ人々です。一方、サマリア人は、自分の囲いから出て、自分の持っているものを差出し、人を介抱しました。両者の違いは明確です。人を愛することは、自分の範囲内の可能なことだけをしていては愛せません。

 隣人を愛する出発点は、神がどんなに罪深い私達をも深く愛してくださったか知る事です。そこから神の愛に応えることができます。イエスが私を愛してくださっている事を実感できる人になる。これが隣人愛の原点・出発点と思います。