ルカによる福音書9:31~62          2024.9.8

   小田弘平

 イエスに従っていた弟子たちに「わたしについて来たい者は、自分を捨て自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」と言われた。弟子たちはイエスの言われたことを理解できなかった。「悪霊にとりつかれた子供を助けてください」と叫ぶ父親の叫びにも自分たちは何もできませんと正直にイエスに告白してイエスに頼むことすらしなかった。

 弟子たちは弟子たちの中で、誰がいちばん偉いかということだけが関心事だった。このことを知ったイエスは最も小さい者こそ、最も偉いものだと諭された。しかし弟子たちはこの言葉の意味すら理解できなかった。聖書は「彼らには理解できないようにイエスの言葉は隠されていた」と記録している。

 なぜだろうか。弟子たちも罪人に過ぎない。神の子イエスの正体はいつもイエスの従っている弟子たちでさえ、見抜くことはできなかった。弟子たちが「先生がおっしゃっていることはどういうことですかと尋ねればよいのだが、弟子たちは仲間の手前、理解力の弱いことを他の弟子に見せたくなかった。

 この誰よりも偉くなりたいという考えは現代にも生きている。現代社会の基本構造はこれに依っている。イエスは言われる。「最も小さい者がこの社会を支えているのだ。私に従う者は小さくなって社会を支えよ。わたしはあなたと共に小

 

さくなって社会を支えるよ。共に生きていこう」と。聖書記者ルカはこのことを伝えたかったのだ。

 エルサレムを目指して進むイエスと弟子たち一行の姿が村々で目立つようになった。行く先々でイエスは神の福音を具体的に語り、神の業をなしておられたことだろう。その姿を見て、一行に加わりたいという人が現れた。その希望者に対してイエスの弟子になる条件を示された。ルカはこの条件を伝えながら、信仰を求める人に信仰に入る基本的心構えを伝えようとしている。

 イエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、イエスとイエスに従う者のこの世では苦難があることを告げられた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない」。父親を亡くした人が「告別式を終えてから従います」また「家族に別れの挨拶をしてから従います」など言う志願者にイエスはその人に「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

 イエスの弟子になりたいという思いはその気持ちが与えられたら即刻、行動に移さなければならない。弟子になることはこの世とは別次元の重さがある。イエスの教えが2000年後の今日まで継承されている背後にはこのような決心をした弟子が続いていたことを知る必要がある。