マタイによる福音書18:15-35        2023.7.23

西澤 正文

テーマ:「7回どころか7の70倍まで赦しなさい」(22

 ペトロがイエスに「友が罪を犯したら何回まで赦しますか7回までですか」と質問しました。この質問は、黒崎幸吉氏の注解書によれば、当時の格言に、「人の私に対する罪は3度まで赦し4度となれば赦すべからず」の教訓を思い浮かべながらも、罪を犯した友への深い愛を知り(15-20)、この格言の赦す回数の3回を約倍にし「7回までですか」の質問をしたとのこと。

    このペトロの質問に対しイエスは、7回を70倍(490回)するまで赦しなさい、と応えました。どこまでも(無限に)、仕返しをしないで赦しなさい、ということです。自分の受けた痛みを忘れ、友を迷える道から立ち返らせることを考えなければならない、いつまでも自分の被る痛みのことばかり考えてはいけない、これが愛の道と教えられました。

 これはどういうことでしょうか。自分は、罪を犯して死ななければならない身であるのに、イエスが自分の身代わりとなって十字架に架けられ死んでくださった。そのことを忘れないよ

 

 

うにしないさい、というイエスの教えです。自分が赦された者であることを忘れ、人を赦せない人間になっていることを示しています。

 イエスは、幼子をたたえ、幼子のようになりなさい(3-4)と教えました。この教えは、人は神から赦されなければ生きて行くことが出来ない小さな存在であり、滅ぶべき者であることを知りなさいということです。

 神は、イエスをこの世に送り、人々の罪の贖いとなり33歳の若さで、イエス御自身罪とは全く無縁でありながらも、十字架上で徹底的に侮辱され、裸同然の姿で十字架に架けられ両手から血がしたたり落ち、苦しみ抜いて息を引き取りました。ここにイエスの十字架の福音の真理が詰まっています。

▢結びとして

 イエスの福音にどう応えるのか。イエスによって罪を赦された者、命が救われた者として福音に応える具体的な生活をしてなければなりません。そのためにも先ずは、祈りの中で自分自身の罪をはっきりと示されることです。