コリントの信徒への手紙Ⅰ8:1-13      2024.2.11

西澤 正文

テーマ:キリストはその兄弟のためにも死なれた(11) 

 コリント教会の中では、ユダヤ人でない人がクリスチャンになったことを気遣い、偶像の神殿から来たものを食べたら偶像に犯されはしないかと、心配するする人も少なくありませんでした。一方、「偶像などない。肉を恐れる必要はない」と主張する人もいて、教会は混乱しました。

 そこで、パウロはこれに対し福音の根本精神を示されました。偶像に供えた肉を食べることの善し悪しは、なるほど「わたし達は皆知識を持っている」ことを、わたし達は知っている。パウロは、愛のない知識を戒めなければならないことを感じ、特に知識を誇るコリント人に向い、強く話されたのです。たとえ知識があっても、愛が無ければ、この知識は有害である、と。なぜならその知識は、その人を誇らせるだけであり、人に益を与えないからです。

 自らこの問題について、知識があると思う人は、知らなければならない最も重

 

要な事柄、愛が無ければならないことを知らない人です。したがって、最も無知な人と言うこともでます。パウロは、自分が当時最高のエリートであったにもかかわらず、弱い人が偶像に供えられた肉を食べれば汚れると今もって習慣にとらわれている人たちの立場に立とうとしました。 

 肉を食べようが、野菜だけ食べようが、神には直接関係がありません。パウロは、食物は信仰とは関係のない、とはっきり言いました。何をしても自由です。しかし気をつけなさい。あなた達のその自由が、弱い人たちにつまずきにでもなることがないように、と。

まとめとして

 偶像はにせものであり、偶像にいけにえを捧げる儀式は、意味を持たないが、そのような肉を食べることで一部の弱いキリスト者たちは、敏感な良心(個人の善・悪の判断)に傷つきます。偶像に捧げられた肉を食べることが、弱いキリスト者たちの良心に背くなら、成熟した信者はそれを避けるべきです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(11)からです。