マタイによる福音書16章            2023.7.2   

小田弘平

   ユダヤ人と同様にイエスは神の子であることが弟子たちもわからなかった。そこでイエスは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われた。それに対してシモン・ペテロのみが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

   ペテロがこの告白をさせたのは人間ペテロではなく父なる神だった。それからイエスは自分に従うとはどういうことかを話し始められた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 「自分を捨てる」とは人間として思いを捨て、神のことを第一とする生き方を選択することである。この世の幸福、生活の安定、名誉など私たちが憧れる生き方と決別することだ。しかし人間はそう簡単に切り捨てることができない。これらの捨てがたいものを引きずりながらイエスに従おうとしている。

   言い換えれば、「自分の命を救いたいと思う者は、わたしのために命を失う者は、それ(真

 

 

の生き方、真の命)を得る」。

  また私たちは罪を犯し続けているのではないか。その証拠に主イエスが教えてくださった「主の祈り」の中に「我らに罪を犯すものを、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」との言葉がある。私の罪のためにもキリストが十字架にかけられた。にもかかわらずイエスはそれらすべての人間の罪を担われて十字架にかけられた。これが真実であることはイエスの復活という事実が裏付ける。

   私は人生の階段の中でこのことを少しずつ教えられた。罪のありようは一定の形式的なものではなく、各人各様に具体的な場面で示されると思う。

最後に言われた。「人の子(主イエス)は、父の栄光に輝いて天使たちと共に

来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

    この裁きは恐ろしい。しかし裁き主は復活された主イエスである。ここにわれらの希望がある。「わたしがきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカによる福音書5章32節)