マタイによる福音書26:47~75            2023.11.5

小田弘平

 私は長い間、ユダが祭司長たちなどが遣わした大勢の群衆を引き連れてイエスを捕えようとしたとき、ユダが接吻する人がイエスだと「前もって合図を決めていた」理由がわからなかった。なぜなら群衆はイエスの顔を神殿で見て知っていたからである。しかしユダが群衆と来たのは「真夜中の暗闇」だった。彼らは松明を掲げて来ただろうが、真っ暗な闇だからイエスを確実に見つけるのは難しい。そのためユダは合図を決めていたのだ。

 なぜ昼間でなく夜ユダは来たのか。盗人が夜やってくるように夜は罪の支配する時間帯である。それでもイエスはユダを「友よ」と呼んでおられる。

  イエスと一緒にいた者の一人が剣で大祭司の手下の耳を切り落とした。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆剣で滅びる。」

 たしかに武器を取る者は武器で滅びる。これは人間の歴史が証明している。武力で勝ち取った平和は続かない。「正義の戦争」として始められた戦争でも必ず、次の戦争を生んでいる。日本の歴史も証明している。戦争を止める方法はただ一つしかない。全世界の武器を廃止することである。絶対非戦より道はない。イエスは「剣を鞘に納めなさい」と言われる。

 

  このときイエスと寝食を共にした弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げた。自分の命を守ろうとしたのだ。人間の弱さと片付けてはならない。人間の罪そのものを示している。イエスの十字架の死と復活によって罪の力を打ち砕かれた。真夜中にもかかわらず最高法院が開かれた。イエスの話を聞いていた民衆が騒がないうちに判決を下すためである。最高法院はメシアであるイエスを死刑の判決を下した。

 闇に紛れてペテロは大祭司の屋敷に潜入していたが、発見されたがペテロは三度もイエスの弟子であることを否定した。そのとき鶏が夜明けを告げる時の声を告げた。「鶏が鳴く前、あなたは三度わたしを知らないというだろう」と言われたイエスの言葉をペテロは思い出して泣いた。ペテロは自分の真の姿を知ったのだ。自己中心の罪そのものであることを知らされた。

 主イエスが言われていた「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とは自分を招くために語られたことをペテロは知った。自分の罪のためにイエスは十字架の刑に処せられたのだ。このことを知ったペテロはイエスの忠実な使徒に作り変えられた。その時、長い闇が終わった。