清水聖書集会 マタイによる福音書13章        2023.6.4

小田 弘平

    イエスは群衆に種蒔きの話をされた。ガリラヤの農民は日本のように畝の穴に種を丁寧に蒔く方法ではなく、畑全体に種を広くばらまいた。それゆえ「道端」、「石だらけの地」、「いばらの茂っている地」に落ちた種は実をつけない。「良い土地」に落ちた種は一粒が三〇倍,六十倍、百倍もの実をつけたという。

    イエスはなぜ福音を種まきの「たとえ」を用いられたのだろうか。群衆がよく知っている事柄を使うと細かい説明をしなくても本質が伝えられるからだ。「たとえ」話は「あっそういうことか」と「直感」で悟ることができる。しかし簡単にわかることは簡単に忘れられる。

   それゆえイエスは弟子たちに懇切丁寧にたとえ話の本質を話された。弟子たちは頭で理解しようとすることを見抜かれたからだ。弟子たちに『毒麦のたとえ』を詳しく話された。毒麦を見つけてもすぐ抜かないで刈り入れの時まで放置せよと。毒麦のない社会は存在しないのだ。

   弟子たちに最も伝えたいことは、神の裁きが厳然として待っているから、神の国の福音を持ちつづけよということだった。わたしは信仰ある者だから天の国に入れると安住してはならない。罪人である弟子たちに主イエスが「主の祈り」を教えられたのはこのためである。再臨のとき「わたしたちは皆、神の裁きの前に立たねばならない」(コリントの信徒への手紙Ⅱ5章10節)。

  さらにイエスは弟子たちに神の国とはどのようなものかと話された。この世的には貧しくなっても神の国への信仰を持ちつづけよと念を押された。イエスは貧しい大工のせがれにすぎないと馬鹿にされたが、小さくされた一平民としての地上の生涯を歩んだ。その結果はどうか。イエスの名を知らない者は皆無と言ってもよい。その背後に信仰を持ちつづけた数名の弟子たちがいる。